死ぬ=無
ども、ブログあげてる人です( ・∇・)
我輩はモノリスである、名前はまだない
僕の中でのモノリスは遊戯王のこれだったりする。三幻神懐かしい…。
今日は死について考えよう、そうしよう。
最近僕のツイッター界隈ではバイク事故で亡くなってしまった方を見かけます。ツイッターで知り合って仲良かった人が冥福を祈るツイートを流す、一部アンチが勝手な予想で批判してツイッター口論になるなんてあります。それについて僕の意見を話すというつもりはないので別の視点から考えてみようと思います。
世の中様々な理由で死んでいくことがありますが、僕的には死ぬ=無になると思います。それは人間としてアップデート出来ることが無くなるということです。
人が死んでしまうと次の日から死んだ人はいないですよね?親が親族が知人・友人が悲しみ、葬儀をあげて粛々と行うという感じです。そこからはその人が生きていたことについて食事をとりながら思い出話をするという流れになりますが、過去の出来事が上がり続けます。
僕のようなバイク乗りであれば「この人とはこういうところに行きました」「トラブルあったのですけど無事帰れました」と思い出に花を咲かせると思うのですが、その場面ではまるで亡くなった人が生きているようなそんな錯覚に陥ります。
でもそれはあくまで「過去」の話であり、「未来」の話は本人からしか聞けないのです。これがアップデート出来ないという話で、死んでしまうと未来にやりたかったことができなくなるんですよ。だからこれ以上変化のない「無」の状態になります。
そうしていくうちに亡くなった人は仏壇で拝まれ、まだ盆休みに墓参りにいくようになっていくのですが、亡くなった人が生きていた頃よりも関心は無くなっていきます。何故なら辛いことは忘れるように人間の脳にインプットされているからです。いつしか話題にもあげられずにフェードアウトしていく、日本では一回忌等で死者を見つめ直す機会がありますが、毎日のようにする訳でもないので心から少しずつ消えていくのは止められないでしょう。
死のリスクはこの無になることだと思います。これから先何をしたいか分からないですが、生きている=未来があるなので、政治家にもなれる、宇宙飛行士にもなれるチャンスがあるかもしれないということです。(かなり極論ですが頭に浮かんだことが出来ると考えてもらえればいいです)
自分を覚えてもらう数は死ぬ前がピークです。生まれる頃から右肩上がりに上がっていって死亡後は下降していきます。
(ちなみにツイッターでは少し違って、認知の数が死亡後に増えます。で同じように下降していきます。拡散されることによって知らない人が情報として目に入れる為です。それによって批判されてしまうこともしばしば)
自分の希望もなくなり、人の関心も失うとなるとそれって無そのものです。最先端技術で少しでも長く生きようと思うことも当然なのかもしれません。
死のリスクは世の中生きていれば何パーセントかはあります。今日死ぬかもしれないし、10年後死ぬかもしれない。死神の目なんか持ってたら分かるんでしょう、そう、あればね…( ・∇・)
そんなものないと思うんで、なるべく長生きして自分のために生きたいですね。死んだら人生ゲームオーバーなので、それまでに自分で生きた証を残しましょう。もし僕が死んでもこの黒歴史確定ブログは(サーバがあれば)生きているので、一人でも幸せになれば無にはならないでしょう^ ^